川から借りて、川へ返す

東庄、二〇五〇年 ── 六月のある一日


登場人物はすべて架空です。

苅部 亮(かるべ りょう) 四十一歳。川のガイド。
飯高 千夏(いいだか ちなつ) 五十五歳。道の駅の厨房。もとは主婦。
塙 亘(はなわ わたる) 二十七歳。自動運転基地の整備。
貝塚 久子(かいづか ひさこ) 六十三歳。農家。
多田羅 松男(たたら まつお) 六十六歳。漁協。
布施 玲(ふせ れい) 四十五歳。教育委員。
槇野 大介(まきの だいすけ) 七十四歳。旧石出小学校を借りた人。
及川 澪(おいかわ みお) 十五歳。中学三年。
結城 悟(ゆうき さとる) 五十二歳。工業団地の技術者。
鵜沢 トメ(うざわ とめ) 九十一歳。
石毛 剛(いしげ つよし) 六十八歳。ヨシを刈る人。
ヨハンナ 三十五歳。研究者。
藤野 誠(ふじの まこと) 七十六歳。もと不動産会社。
里見 香(さとみ かおり) 三十九歳。コンビニの店長。
陣内 律(じんない りつ) 四十八歳。美術家。子どもの絵画教室。二〇二六年から。
矢作 直人(やはぎ なおと) 四十七歳。役場の職員。


一 四時五十分 河口

まだ暗い。

苅部亮は、ヨシ原の際に立って、水の音を聞いていた。六月の朝は、風が出る前のこの時間がいちばん静かだ。

背の高いヨシが、視界の端から端まで続いている。刈られたばかりの一角だけが、ぽっかりと明るい。

「今日、どこまで行きます」

後ろから声がした。東京から来た三人組のうちのひとりだ。四十代の男で、双眼鏡を首から下げている。慣れた持ち方だった。

「今日は上げ潮なんで、あんまり奥までは行きません」亮は答えた。「あそこの水路の分かれるところまで。あの先は、いま巣がありますから」

「入れない?」

「入れないですね」

男は少し笑った。「はっきり言うんですね」

「うちのルールなんで」

ここへ来る人には、最初に必ず言うことにしている。入れない場所がある。入れない時期がある。その代わり、入れるところは全部案内する。二十五年、そうやってきた。

カヤックを下ろす。三人が乗り込むのを待ちながら、亮は自分がここに立っていることを、たまに不思議に思う。

十五のとき、進路の紙に「早く出たい」と書いた。 嘘ではなかった。この町には何もないと本気で思っていたし、実際、当時は何もなかった。高校は隣の市で、電車で通った。そのまま東京の学校へ行って、十年ほど向こうで働いた。

戻ってきたのは、母親が倒れたからだ。ほんとうに、それだけの理由だった。

帰ってきて、しばらく何もせずにいた。ある日、槇野さんに「川、好きだったろ」と言われた。それだけだった。

「あれ、なんですか」

三人組の若い女性が、後ろを振り返って指していた。川から離れる方向、南の台地の上に、低く長い建物が見えている。朝の光が、白い壁に当たり始めていた。

「データセンターです」

「こんなところに?」

「こんなところだから、なんですけどね」亮はパドルを渡した。「ここ、夏でも三十五度にならないんですよ。あと、あの水」

川面を指す。

「あれを引いて、冷やしてます」

女性が、川と建物を交互に見た。「川で、コンピュータを」

「そう。で、温まって出てきたやつを、また使うんです」亮はカヤックを押した。「そのへんは、あとで飯を食うときに話しますよ。話が長くなるんで」


二 六時二十分 道の駅

飯高千夏は、厨房の裏口から外を見て、今日の天気を確かめた。

田んぼが、明るくなり始めている。稲の上には膜が張られていて、朝の光をうっすら反射している。もう見慣れてしまったが、来た人はたいてい、あれを見て足を止める。

「千夏さん、豚、届いてます」

若い子が声をかけてきた。今年入った子で、まだ名前を呼ぶのに慣れない。

「何時に来た」

「五時半です。裏から」

「早いね」

裏の倉庫から回してもらうと、いつもこれくらいだ。壁一枚向こうが物流の倉庫で、そこから台車で運んでくる。 車にも積まない。それで届く。

千夏は肉を見て、少し厚めに切ることに決めた。


千夏は、料理の学校を出ていない。

隣町の菓子屋で、十五年ほど働いていた。パートである。子どもが小さいうちは午前だけ、大きくなってからは一日入った。それ以外の経歴は、何もない。

四十を過ぎたころ、廃校の家庭科室が、ただで使えると聞いた。

日替わりでオーナーが変わる仕組みだった。その日に入った人が、作って、売る。売り上げは、全部その人のものになる。 場所代は取らない。

「なんで無料なんですか」と、千夏は一度だけ聞いたことがある。

槇野さんは「金を取ったら、誰も来ないだろ」と答えた。

千夏は、弁当から始めた。週に三日。

菓子屋で覚えたのは、材料の使い切り方と、包み方だった。それだけで足りた。最初のうちは、十個作って七個残った日もある。残った分は、うちで食べた。

売れなくても、失うものがなかった。材料費だけだ。 それが、続けられた理由だったと思う。

あるとき、槇野さんに「これ、そっちは儲かってませんよね」と言った。

「儲かってないね」と即答された。「でも、あそこの台所が動いてるってことが、この町では大事なんだ」

意味が分からなかった。

いまは、少し分かる。あの家庭科室で店番をした人が、たしか十二人いた。そのうち三人が、いまも町で店をやっている。千夏自身が、その一人だ。

道の駅の献立を最初に組んだのは、東京から来た飲食の人だった。三か月いて、型だけ作って帰っていった。厨房を任されたのは千夏である。

「なんで私なんですか」と聞いたら、その人は「毎日ここにいる人じゃないと無理だから」と答えた。


「千夏さん、これ、今日の予約」

紙を渡された。昼は四十人。ゴルフ場から回ってくる団体が入っている。

昔はコースで食べて帰ったのだと、千夏は聞いたことがある。ゲートを出て、そのまま高速へ乗ってしまう。この町に何万人と来ていたのに、町の人は誰にも会わなかったのだと。

「四十人か」

千夏は米の量を計算し始めた。豚も、米も、野菜も、牛乳も、半径五キロから来る。 それを毎日やっていると、たまに、自分がこの町の胃袋を預かっているような気がしてくる。

町営なので、儲けは大して出ない。それでいい、ということになっている。


三 七時十分 台地

塙亘は、基地の三番ゲートで、戻ってきた車を出迎えた。

無人の配送車だ。バッテリーの残量を確認して、充電のレーンへ入れる。今朝はもう四台目だった。

「亘くん、二号のセンサー、また汚れてるよ」

先輩が声をかけてくる。四人しかいない職場で、そのうち三人が町の出身だ。

「見ます」

亘は布を持って、車の前面をぬぐった。虫だ。この時期はどうしてもこうなる。

朝の四時から、車は動いている。ただし、速くはない。

無人の車は、のろのろ走る。 人が乗っていないので、急ぐ理由がない。制限速度より遅い。後ろについた地元の軽トラが、平気で追い越していく。

「あれ、イライラしないんですか」と、見学に来た人によく聞かれる。亘はいつも「別に」と答える。 荷物は文句を言わない。夜のうちに出れば、朝には着いている。

速いのは、川の上だ。

亘は堤防のほうへ目をやった。ちょうどドローンが一機、川面のすぐ上を、下流へ向かって飛んでいくところだった。荷物を抱えて、まっすぐ東へ行く。

利根川の上が、そのまま道になっている。

川の上には、家がない。電線もない。人も歩いていない。もし落ちても、下は水だ。

だから、荷物を飛ばすならここしかない、ということになった。東西にまっすぐ、何十キロも障害物がない。日本でいちばん大きな川が、そのまま一本の道路のように使われている。

銚子の漁港までは、川沿いに飛べば七分だ。車で道路を回ると三十分かかる。朝いちばんに揚がった魚が、七分でここへ来て、そのまま仕分けの棚に載る。

夕方には、逆向きの便が増える。上流から下りてくるやつだ。慣れると、飛んでいく向きで時間が分かる。


亘は、この町で生まれて、この町の学校を出た。

父親は、亘が就職するとき、隣の市の工場を勧めた。「うちには何もないから」というのが理由だった。父親自身が、四十年そう思って生きてきたのだと思う。

亘は、ここに来た。整備の仕事があると聞いたからだ。

いまも、時々、父親と話がかみ合わない。父親にとって、この町は「何もないところ」のままなのだ。それはもう変わらないのだろうと、亘は思っている。

ただ、去年、父親が一度だけ基地を見に来た。

無人の車が出ていくのを、しばらく黙って見ていた。それから「ふうん」と言って帰った。

それだけだったが、亘はそれをよく覚えている。


四 八時三十分 水田

貝塚久子は、膜の下で人参を抜いていた。

正確には、膜は稲の上にある。人参は、その隣の畑だ。台地に上がるほうは架台で、こちらは平らな田んぼだから、薄いほうを張っている。

紙より薄い。手で持つと、頼りない。それが電気を作っているというのは、いまだにどこかで信じきれていない。

それでも、金は毎月入る。

米の代金は、年に一度だ。秋にまとめて入って、そこから一年やりくりする。台風が来れば、その年は減る。一昨年は、収穫の直前に倒れて、半分になった。

電気は、毎月入る。額はそう大きくない。米に比べれば、はるかに少ない。 ただ、倒れても、日照りでも、金額がほとんど動かない。

久子にとって、変わったのはそこだった。額ではなく、リズムのほうだ。

一昨年、米が半分になった年も、電気は入った。あれがなかったら、たぶん息子に電話していたと思う。


久子が決めたのは、二十年ほど前だった。

暗渠の更新の時期が来ていた。 下に埋まっている排水の管で、これがだめになると田んぼは使えない。入れ替えるには金がかかる。息子は東京にいて、帰る気配はなかった。

やめるか、続けるか。

集会で、隣町から来た人が話をした。

田んぼはやめなくていい。稲の上に膜を張って、その膜で発電する。米はこれまで通り穫れて、電気の代金が別に入る。 その電気の代金で、暗渠を入れ替える金の目処が立つ ── そういう話だった。

久子は、その人の顔をよく覚えている。話が上手ではなかった。ただ、農家を守りたいのだと繰り返し言っていた。

会場では半分くらいの人が「そんなうまい話があるか」という顔をしていた。久子もそのうちの一人だった。

結局、その年に決めた人は、六人だった。久子は七人目で、翌年に決めた。


いま、この田んぼでできた電気は、坂の上へ行く。

久子には、その先で何が起きているのか、正直よく分かっていない。孫に聞いたら「世界中の人がAIに聞いたことに、答えが返ってるんだよ」と言われた。

「私の田んぼで?」

「そう」

久子は、それを近所で二回話した。 三回目からは、言わないことにした。自慢しているように聞こえる気がしたからだ。

腰を伸ばす。坂の上の白い建物が見える。

その手前、少し下がったあたりに、病院の屋根が見えていた。


五 九時十分 役場

矢作直人は、窓口の前を通って、自分の席に着いた。

誰も並んでいない。

九時を過ぎたところだ。昔なら、この時間がいちばん混んだ。転入の季節には、廊下まで列ができた。

いまは、住民票も、転入も、補助金の申請も、たいていは家で終わる。窓口に来るのは、機械が苦手な人と、込み入った話のある人だけだ。一日に十人来れば多いほうになった。

矢作は端末を開いた。夜のうちに届いた問い合わせが、三十七件。そのうち三十四件は、もう返事が済んでいる。

機械が答えている。

残りの三件が、矢作の画面に上がってきていた。「これは人が答えたほうがいい」と判断されたものだ。

一件目を開く。農地の相続の話だった。制度の説明は機械が書いている。ただ、この家は去年、兄弟で揉めている。そのことは、書類のどこにも書いていない。

矢作は電話を取った。


職員は、二十数年で半分になった。

辞めさせたのではない。 退職した分を、埋めなかっただけだ。町の人口が減っているのだから、当然といえば当然だった。

問題は、仕事が半分にならなかったことだ。

矢作が入庁したころ、若手の仕事は書類を作ることだった。同じ内容を三つの様式に書き写す。一日中それをやっている日もあった。あれが何のためだったのか、いまでも分からない。

いまは、下書きは機械が出す。矢作の仕事は、それを直すことだ。

直すのは、たいてい同じところだ。町の人が読んで分かるかどうか。 機械の文章は正確だが、たまに、この町では誰も使わない言い方をする。

「矢作さん、午後どうします」

若い職員が声をかけてきた。今年入った子だ。

「一緒に来て。石出のほう」

「現地ですか」

「現地」

矢作は立ち上がった。今日、庁舎にいる予定は午前だけだ。


新人が、少し嬉しそうな顔をした。

矢作が入ったころ、新人が外へ出るのは三年目くらいからだった。それまでは、ずっと机にいた。

いまは、初日から人に会いに行く。会って、話を聞いて、帰ってきて、それを機械に打ち込む。打ち込むところは五分で終わる。

「矢作さん」歩きながら、新人が聞いた。「あの、判断って、機械にやらせないんですか」

「やらせない」

「なんでですか」

矢作は少し考えた。

「間違えたとき、機械は謝りに行けないから」

新人は「なるほど」と言った。たぶん半分も納得していない顔だった。

それでいい、と矢作は思った。自分も、入ったころは分かっていなかった。


六 九時四十分 工業団地

結城悟は、白衣のポケットに手を入れたまま、机の上のものを見ていた。

ビーカーが三つ。色のついた水が入っている。あとは、写真を印刷したものが数枚。

今日の十一時から、小学校で話すことになっている。

三年目だ。毎年やっている。それでも、前の日から気が重い。

「結城さん、また悩んでるんですか」

隣の席の若い研究員が笑った。

「悩むよ」結城は言った。「うちの仕事、子どもに説明できないんだよ」

半導体を作るのに要る感光材。光が当たったところだけが変わる材料で、それがなければ、いまどきの機械はほとんど作れない。世界でこれを作れる会社は、そう多くない。

だが、それを九歳に説明する言葉を、結城は持っていない。

去年は、光で色が変わる実験をやった。子どもは喜んだ。喜んだが、たぶん、それが何の役に立つかは伝わっていない。


結城は、この町の出身ではない。

三十二のときに転勤で来た。二年で戻るつもりだった。

家族は東京に置いてきて、金曜の夜に帰る生活を二年続けた。三年目に、妻が「こっちで暮らしてもいいよ」と言った。理由を聞いたら、「あなたが毎週、町の話ばっかりするから」と言われた。

自覚がなかった。

いま、下の子はこの町の中学を出て、上の子は東京にいる。どちらもそれでいい、と思っている。

「結城さん」

若い研究員が、ビーカーを指した。「それ、持っていくんですよね」

「持っていく」

「じゃあ、こっちも」

差し出されたのは、割れたウェハの端切れだった。使い物にならなくなったやつだ。虹色に光る。

「触らせてやってください」若い研究員は言った。「俺、子どものころ、それが見たかった」

その子は、この町の出身だった。

結城は少し黙って、それを受け取った。


七 十時 石出堰

多田羅松男は、水槽の水温を見て、それからメモに数字を書いた。

いまどきタブレットで済むのだが、松男は紙に書く。四十年やってきた癖だ。

うなぎがいる。今年の出来は悪くない。


松男は、もともと川の漁師だ。

親父の代からそうだった。ここの漁協は海の組合ではない。利根川の組合で、獲る量を決めるのも、稚魚を放すのも、昔からこの人たちの仕事だった。

だから、育てることに抵抗はなかった。

抵抗があったのは、坂の上から湯をもらうという話のほうだ。

「コンピュータの余りだよ」と言われて、松男は最初、意味が分からなかった。何かの冗談だと思った。

いま、その湯で水温を保っている。魚を育てるのにいちばん金がかかるのが、そこだ。その一番かかるところが、隣からタダで来る。

「松男さん、あっちの水、いいですか」

若い者が声をかけた。

「いいよ。流して」

養殖に使った水は、そのまま用水路へ入る。堰から田んぼへ行く流れに、乗せるだけだ。新しい管は一本も引いていない。

餌の残りと糞から出た養分が溶けている。昔は、きれいにしてから捨てていた。いまは、そのまま久子さんたちの田んぼへ行く。

去年、久子に「あんたのとこの水、よく効くよ」と言われた。

松男は「そりゃ、魚の糞だからな」と答えた。二人で少し笑った。


八 十一時二十分 東庄小学校

布施玲は、教室の後ろに立って、十四人の子どもを見ていた。

学年は揃っていない。三年生が四人、四年生が七人、五年生が三人。この時間は、算数を進度で分けている。 学年で区切らない時間が、週に六コマある。

前で説明しているのは、担任ではない。工場の技術者だ。今日は、水にものが溶けるという話をしている。

話は正直、上手ではない。専門的すぎて、途中で誰も分からなくなった。

それでも、子どもは聞いている。

玲は、その理由を知っている。目の前の大人が、本当にそれで飯を食っているからだ。


玲は、教育の会社から来た。委員として、教育委員会に席がある。

外から呼ばれた助言者ではない。決める側にいる。

そうなった理由は、単純だった。会社は、新しい教え方を試させてくれる場所を探していた。町は、塾も来ない、教える人も足りないという状態を、どうにかしたかった。

利害が、同じ方向を向いていた。

「布施さん」

授業のあと、校長に呼び止められた。「例の、学年をまたぐやつ、来年どうします」

「続けます」玲は即答した。「ただ、五年生の三人は、たぶん別のやり方のほうがいい」

「変えられますか」

「変えられます。三人ですから

校長が笑った。「都会じゃ絶対できませんね」

「できませんね」

子どもは、この学校に全部で百人いない。 だから、一人ひとりに合わせて変えられる。試すのも、やめるのも、同じ部屋で決まる。

規模が小さいことは、この一点では圧倒的に有利だった。


九 十二時四十分 温水プール

鵜沢トメは、湯に肩まで浸かって、ガラスの向こうを見ていた。

九十一になる。週に三日、送迎の車で来ている。

ガラスの向こうはプールだ。今日は小学校の授業が入っていて、子どもが十人ほど泳いでいる。声はほとんど聞こえない。水しぶきだけが、白く上がっているのが見える。

「トメさん、今日は長いね」

隣の湯に入っていた女が言った。同じ集落の、二十ほど下の人だ。

「見てるだけ」トメは言った。「面白いよ」


トメが子どものころ、この町に泳ぐところはなかった。

夏になると、川で泳いだ。深いところには行くなと言われていたが、みんな行った。冬に泳ぐという発想が、そもそもなかった。

いまは、六月でも、一月でも、あの子たちは泳いでいる。

「この湯さ」隣の女が言った。「坂の上から来てるんだってね」

「聞いたよ」

「コンピュータの熱だって。信じられる?」

トメは、少し考えてから答えた。

「昔は、風呂を沸かすのに薪を割ったんだよ」

女が笑った。「そりゃそうだ」

「割らなくてよくなって、次はガスになって、いまは坂の上から降りてくる」トメは湯を手ですくった。「ずいぶん来たね」


ガラスの向こうで、子どもが一人、こちらを見た。

トメは、手を振った。

その子も振り返した。それから、何ごともなかったように、また泳いでいった。

トメは、その子が誰の家の子か知っている。 三代前まで知っている。

そういうことが分かる町に、まだなっている。


十 十三時二十分 コンビニ

里見香は、レジの内側から、入口のほうを見ていた。

自動ドアが開いて、杖をついた男が入ってくる。集落の奥に住んでいる人で、週に二度は来る。

「里見さん、あれ、あった?」

「ありますよ。取っといた」

香は棚の下から箱を出した。腰の薬だ。この店は、処方箋も受けられる。 隣の市の薬局まで行かなくてよくなったのは、もう十何年も前のことになる。

「あと、これ頼めるかね」

男が、雑誌の切り抜きを出した。庭の道具が載っている。この店には置いていない品だ。

「明日の朝に来ます」

「明日?」

「裏に倉庫があるんで」香は端末を叩いた。「夜のうちに入って、朝には棚に出てます」

男は少し黙ってから、「便利になったなあ」と言った。この人は、それをもう百回くらい言っている。


店の棚の三分の一は、この町のものだ。

朝採れの野菜には、作った人の名前が入っている。前の日の夕方に「明日これだけ出せる」と入力してもらえば、翌朝には値札まで出る。貝塚さんのところの人参は、だいたい昼までになくなる。

薬がある。振込ができる。役場の証明書が出る。宅配を出せるし、受け取れる。ガソリンと充電がある。

そして、届ける。

免許を返した人のところへは、注文したものを車が運ぶ。運転手は乗っていない。時速二十キロくらいで、集落の道をのろのろ行く。急がないので、事故も起きない。

「香ちゃん」

男が帰りぎわに振り向いた。「これ、昔はどうしてたんだっけな」

「三十分かけて、隣の市まで行ってました」

「そうだ」男は笑った。「あのころ、免許返したら終わりだと思ってたよ」


香は、この町で生まれた。

十八で出て、二十六で戻ってきた。戻ってきたとき、町には店がほとんどなかった。祖母が「買い物に行けない」と言うのを、電話で何度も聞いていた。

いまは、この店が全部を引き受けている。

深夜は誰もいない。入口で顔をかざせば、勝手に開く。朝、来てみると、棚が減っていることがある。誰かが夜中に来たのだ。

香は、それを見るのが少し好きだ。


十一 十四時 空き家

陣内律は、脚立の上で、天井板を一枚ずつ外していた。

築八十年ほどの家だ。去年から借りている。持ち主はもういない。

外した板は、下に並べていく。捨てない。 この家でいちばん古いものだから、最後にどこかで使う。

「陣内さん、これ、どこ置きます」

手伝いの若い子が、下から声をかけた。美大の学生で、夏のあいだだけ来ている。

「そこでいい」

「完成、いつですか」

「決めてない」

学生は少し困った顔をした。律は、その顔を毎年見ている。


律がこの町に来たのは、二〇二六年だった。

二十四歳だった。滞在制作の枠があると聞いて、応募した。三か月の予定だった。

廃校の図工室を使わせてもらって、そこで作った。住んだのは、歩いて七分の一軒家だ。冬は寒かった。

三か月が終わって、律は延長を頼んだ。理由は、うまく説明できなかった。作りかけだった、というのがいちばん近い。

延長がもう一度あって、その次の年に、住民票を移した。


いま、律が手をつけた家は、二十軒を超えている。

壁を抜いた家。床に水を張った家。庭ごと草に還した家。全部が公開されているわけではない。予約でしか入れない家もあるし、隣に人が住んでいて、静かにそこにあるだけの家もある。

壊す金がなくて残っていた家ばかりだ。

律は、それを幸運だと思っている。金があったら、全部きれいに更地になっていた。


律は、教員免許を持っている。

学生のとき、なんとなく取った。使うつもりはなかった。 作家でやっていくつもりだったし、実際そうしてきた。

この町に来て三年目に、それが役に立った。

小学校で図工を教える人がいなかった。担任が兼ねていて、正直、手が回っていなかった。免許があると分かったとき、布施さんが「お願いできませんか」と言ってきた。

いまも、週に一度、学校で教えている。

それとは別に、自分の教室がある。放課後、空き家の一軒を使って、子どもが十人ほど来る。町の子もいるし、隣の市から通ってくる子もいる。

絵の描き方は、あまり教えない。 自分が描いているところを見せて、あとは好きにさせる。それで足りると思っている。

去年、その教室にいた子が、中学を出るときに訪ねてきた。美術の学校へ行くと言った。

「なんで陣内さんは、ここに残ったんですか」と聞かれた。

律は、答えられなかった。二十四年考えているが、まだ答えが出ていない。

その代わり、こう言った。

「三か月のつもりだったんだよ」

子どもは笑った。笑われたが、それが本当だった。


脚立を下りる。

窓から、坂の上の白い建物が見えた。あの建物ができたとき、律はもう十年以上ここにいた。

来たときは、この町でいちばん新しい人間だった。

いまは、たぶん、古いほうから数えたほうが早い。


十二 十五時十分 ヨシ原

石毛剛は、機械を止めて、腰を伸ばした。

刈ったヨシが、後ろに列をなして倒れている。六月のこの時期は、去年の枯れたやつを片づける作業だ。

暑い。ただ、三十度は超えていない。この土地は、そういう土地だ。

「イシゲさん、ここまででいいですか」

呼ばれて振り向くと、ヨハンナが立っていた。三十半ばの、北のほうの国から来た研究者だ。日本語は、去年よりだいぶ達者になった。

「そこまでな。あとは来月」

「なぜ来月?」

「鳥がいるから」

ヨハンナはうなずいて、手帳に何か書いた。この人は、いつも書く。


石毛は、二十年ヨシを刈っている。

もともとは建設の仕事をしていた。腰をやって、辞めて、しばらく何もしていなかった。ヨシ刈りの人手が足りないと聞いて、行った。

はじめのころは、なぜこんなことをするのか分からなかった。刈った草に、金を出す人がいるとは思わなかった。

いまは、刈ったものは屋根を葺くのに使われる。堆肥にもなる。買っていく先が、いくつかある。

「イシゲさん」ヨハンナが言った。「この場所、世界遺産です」

「知ってるよ」

「でも、人が毎年、手を入れています」

「入れないと、藪になるからな」

ヨハンナは笑った。「それが、面白いです」

書類が一度、戻ってきたことがある。 石毛も、そのとき役場に呼ばれて話を聞かれた。「人の手が入りすぎている」というのが理由だと言われた。

石毛は、そのときこう言ったのを覚えている。

「手を引いたら、三年で藪になりますよ。写真、あります」

三年放置した区画の写真が、実際にあった。比較のために、わざと残してあった一角だ。

それを出したのは、石毛ではない。役場の若いのが「使えます」と言って持っていった。

通ったのは、それから何年かあとだった。


「イシゲさん、この機械、重いですか」

ヨハンナが刈り取り機を指した。

「重いよ」

「持ってみていいですか」

石毛は、少し考えてから渡した。

ヨハンナは持ち上げて、二歩あるいて、置いた。

「重いです」

「だろう」

二人で、少し笑った。

世界遺産というのは、たぶんこういうことなんだろうと石毛は思っている。 誰かが毎年ここに来て、この重いものを持って、歩く。それが百年続けば、この景色は残る。

止めたら、終わる。それだけの話だ。


十三 十六時四十分 旧石出小学校

槇野大介は、図工室の窓を開けた。

風が入ってくる。六月の、少し湿った風だ。

部屋の真ん中に、大きな作品がある。二〇一九年に運び込まれたもので、いまもここにある。「そこで生えている」という題がついている。

ベニヤ板だ。三尺六尺の板に、木炭で森が描いてある。それが繋がって、四百枚を超えている。

一枚ずつは、大人が両手で持てる大きさだ。繋がると、廊下を曲がっても終わらない。

はじめて運び込まれた日のことを、槇野はよく覚えている。トラックから板を下ろして、教室へ運んで、並べた。「これ、全部ですか」と聞いたら、「まだ増えます」と言われた。

実際、増えた。

置き場に困っていた人と、空いている教室を持っていた町。倉庫として使わせてもらう代わりに、ここで展示する。 それだけの取り決めだった。

そのあと、話が伝わった。大きな作品を作る人は、たいてい同じ問題を抱えている。作ったあと、置く場所がない。

いま、その周りに、あとから来たものが並んでいる。数えていない。


槇野は、二〇二六年のことを、よく思い出す。

あの年の八月、東京から二人来た。不動産の会社の人だった。一時間だけ話をして、帰っていった。

その日、何も決まらなかった。契約も、約束も、金額も、何ひとつ。

槇野は翌日、町のことを書いた文章を送った。

道路が変わること。工場に投資が続いていること。台地の上は揺れにくく、夏でも暑くならないこと。そして、人が減っているのに住むところが足りないこと。

最後に、こう書いた。

いま何かを決めていただく必要は、まったくありません。
東庄という町があって、こんなことを考えている人間がいる ── それだけ頭の片隅に置いていただけたら、この資料は役目を果たしています。

二人は、それを社内の三つの部署に回した。

そこから、二十四年かかった。


槇野は、当時五十だった。いまは七十四だ。

途中でやめた話のほうが、実際は多い。数えたことはないが、たぶん十や二十ではきかない。

来ると言って来なかった会社があった。一年で撤退した事業があった。移住してきて、二年で出ていった人が何人もいた。そのことは、あまり誰も書かない。

うまくいったものだけが残って、あとから見ると、まるで計画があったように見える。計画はなかった。

一枚ずつ、続けられるかどうかで決めただけだ。

「槇野さん」

廊下から声がした。苅部亮だった。朝の客を送って、戻ってきたところらしい。

「今日、どうだった」

「三人。ひとり、また来るって言ってました」

「そうか」

亮が、部屋の中を見た。「これ、まだあるんですね」

「動かせないんだよ。でかすぎて」

槇野が言うと、亮が笑った。

この校舎を借りたとき、槇野は五十で、亮は二十六だった。


十四 十八時三十分 道の駅

藤野誠は、駐車場に車を停めて、しばらく降りずにいた。

七十六になる。運転は、まだ自分でしている。

助手席に、孫が座っていた。大学一年で、今日はなんとなくついてきた、という顔をしている。

「じいちゃん、ここ?」

「ここだ」

建物を見る。夕方の光が、ガラスに当たっていた。田んぼの向こうに、坂の上の白い建物が小さく見える。

藤野が最初にここへ来たのは、二〇二六年だった。


会社の、新しい事業を探す部署にいた。

ある日、社内のマッチングの仕組みに、千葉の小さな町の団体から連絡が来た。上司でも部下でもない、ただの一担当者だった藤野が、同僚と二人で話を聞きに行った。

オンラインで一時間。それから、実際に町へ行った。

廃校の教室で、男が一人で話した。道路が変わること。工場に投資が続いていること。台地の上は揺れにくく、夏でも暑くならないこと。

藤野は、正直、半分も信じていなかった。

地方でそういう話を聞くのは、初めてではなかった。たいていは、熱意だけがあって、数字がない。

ただ、その男は、最後にこう言った。

「いま何かを決めていただく必要は、まったくありません」

藤野は、それを覚えて帰った。

社内の三つの部署に話を回した。二つは、返事もなかった。一つが、興味を持った。

そこから、長かった。藤野が定年で辞めるまでに、形になったものは半分もない。残りは、あとの世代がやった。


「降りないの」

孫が言った。

「降りるよ」

藤野は車を降りた。夕方の風が、田んぼの上を渡ってくる。稲の上の膜が、少しだけ光を返していた。

「あれ、なに」孫が指した。

「発電してる」

「田んぼで?」

「田んぼで」

孫は、しばらくそれを見ていた。「へえ」

それだけだった。 藤野は、それでいいと思った。

自分にとっては二十四年かかったものが、この子にとっては、生まれたときからそこにある風景なのだ。「へえ」で済むということが、たぶん、いちばん正しい。

「なんか食べるか」

「食べる」

二人は、建物のほうへ歩いていった。


十五 二十時十分 及川家

及川澪は、机に紙を広げていた。

進路希望の紙だ。明日、提出しなければならない。

この町に高校はない。だから、どこへ行くにしても、電車かバスで町の外へ出る。それは昔から変わっていないし、これからも変わらない。

澪は、行きたい学校をもう決めている。書くところは、その下の欄だ。

「将来について、いま考えていること」


今年の春、澪は世界の町と繋ぐ授業で発表をした。

テーマは水だった。「うちの町では、田んぼの上で電気を作っています」と説明したら、画面の向こうの町が驚いた。ノルウェーの、人口が四千人くらいの町だった。

「どうして、そんなことができるの」と聞かれた。

澪は、うまく答えられなかった。当たり前だと思っていたからだ。

家に帰って、母親に聞いた。母親は「昔はなかったよ」と言った。それだけだった。

祖母に聞いたら、長い話が始まった。暗渠がどうとか、集会で話を聞いたとか、六人しか決めなかったとか。半分くらいしか分からなかった。

ただ、祖母が「あのとき、やめてたらねえ」と言ったのが、耳に残っている。


澪は、ペンを持った。

一度出るのは決まっている。高校も、たぶんそのあとの学校も、ここにはない。友達もみんなそうだ。

でも、帰ってくるかもしれない、とは思っている。

理由をうまく説明できない。ただ、川のガイドをしている苅部さんも、道の駅の飯高さんも、基地の塙さんも、みんなどこかから帰ってきたか、どこかから来た人だ。この町にいる大人は、たいてい一度ここを出ている。

それなのに、ここにいる。

澪は、少し考えてから、書いた。

「一度は出るけど、たぶん帰ってくる。ここでやれることがあるので。」

書いてから、少し短すぎる気がして、下に一行足した。

「まだ何をやるかは決めていません。」


窓の外は暗い。

坂の上のほうに、明かりが見えている。あの建物は、夜も止まらない。世界のどこかで誰かが何かを聞いていて、その答えが、この町の田んぼの上で作った電気で返っている。

そういうことになっているらしい。

澪は紙をたたんで、鞄に入れた。


🌙 これは妄想です。登場人物・団体はすべて架空のものです。


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